自転車のスピードで

「やっぱ俺でも一筋縄じゃいかないな。んじゃ松沢、またかけ直すわ」

数十分の会話の後、彼は脈がないとみたのか、電話を切った。
営業成績地域ナンバーワンの自負があったのだろう。

他の友人から、私が極端な車嫌いだということを聞きつけて、自分なら落とせると
勇んで電話をかけてきたらしい。

だが、私の頑なな態度に根負けしたのか、車のディーラーをやっている新しい友人は
結局自分から受話器を置いた。

最近まで知らなかったが、私の車嫌いはセールスをやっている友人の間で
伝説となっているらしい。
そこまで尾ひれがついているとは思わなかったので、その話を不動産ディーラーの友人から
聞いたときは、思わず笑ってしまった。

たしかに今現在、車に乗ろうとは思わないが、私は自動車が嫌いというわけではない。
事実、２０台の前半は外車を２台所有していた。

たまたま始めたビジネスで成功し、友人に勧められるまま購入したのだが、
車が与えてくれる快適さやステータスをビジネスの成功の証として考えるようになり、
たちまち夢中になった。

だが、その熱はすぐに冷め、私はハンドルを握らなくなった。

高級車を乗りまわす自分の姿は、どこか虚勢を張っているようで、全然
自分らしく見えないことに気付いたからだ。

そもそも私がビジネスをはじめたのは、高級車を乗りまわすのが目的ではない。
高価な食事や、都心のマンションのペントハウスを手に入れたいからでもない。

ただ自由に生きてみたかったからだ。

与えられた生の時間を、自分の思うままに使うために必要なお金を手に入れるためだった。
それがいつのまにか、わずかな成功という熱に浮かされ、目的を見失ってしまうという
「わな」に陥ってしまっていたのだった。

そのことに気付き、思いきって全てを捨ててみた。
成功したビジネスがもたらしてくれるお金のにおいのするものは何一つなくなった。

かくして私は車から、自転車に乗り換えた。

だが、私には自転車のスピードが肌に合うらしい。

かつて、ビジネスに食われて２４時間拘束されてあくせく働いた日々は
記憶の向こうに消えた。

今は、全てが自転車のスピードで回転していく。
そうしたら、車に乗っていた時は見えないものが見えるようになってきた

見た目こそ派手さはないが、これこそ私の望んでいた人生だと、今は胸を張って言える。


全てを捨てて、私はようやく、自分サイズの幸福を手に入れることができたのだ。